ほとんどの人たちは,単なる長編ラブストーリーとして「タイタニック」を観ると思いますが,実はこの映画,言語学的にも非常に示唆に富んでいるのです。というのは,JackやRoseをはじめとしたキャストの話すことばの端々まで,言語学や音声学の専門家がチェックし,語彙やアクセントに至るまで,忠実に1912年当時を再現するよう努めているからです。私のように,社会言語学に関心のある人は,3等船客のJackと上流階層のRoseの会話から,当時の社会方言に思いを馳せることもできますし,歴史言語学に関心のある人なら,84年前の言語事実を目の当たりにできるのですから,こんな機会はありません。
タイタニック号がサウサンプトン港を出港してから3日目の深夜,行く手に立ちはだかる巨大な氷山に衝突します。不沈の船と言われたタイタニックも,浸水が甚だしく,船首から徐々に沈み始めます。救命ボートには搭乗人数の約半数しか乗れず,一刻も早く救助を求めなければなりません。そこで,スミス船長は無線室へ行き,通信士に,本船は船首から沈没するという旨の"CQD"を打てと言います。"CQD? Sir?"と聞き返した無線士に,船長は"Yes, CQD, a distress call."と答えます。
淡々と進むこの事務的なやりとりを気にとめる人は,超満員の観客の中にもまずいないでしょう。でも…「CQD」って何でしょう? 緊急信号といえば「SOS」ではないでしょうか? 実際,字幕にも"SOSを打て"のように出ています。この「CQD」は意外と難物で,手元の辞書数十冊にあたってみましたが,立項されていたのは「リーダーズ・プラス」とOEDのみで,
CQD【海】 call to quarters, distress 「全受信局へ, 遭難せり」 《1904-08 年に用いられた海難救助要請信号, 以降は `SOS' に変更; `come quickly, danger' (早急に来られたし, 危険状態にあり) の意に誤解されて広まった》. −−−リーダーズ・リーダーズプラス(EPWING)
C.Q.D., in wireless telegraphy, the signal formerly used by ships in distress, consisting of C.Q., the international sign for all stations, followed by D indicating urgent; after 1908 superseded by S.O.S.; --- OED2 on CD-ROM
とのことでした。
タイタニック号の処女航海は1912年なので,「リーダーズ・プラス」の「1904-08年に用いられた」という記述とは,かなりずれがあります。それはともかく,なぜCQDはわずか4年でSOSにとってかわられたのでしょうか? 本来,遭難信号という,無線通信の中でも極めて緊急度,重要度の高いものを示す言葉は,使用言語や時代に関係なく,共通のものであることが,コミュニケーション上においても望ましいのではないでしょうか?
どうやら,CQDが短命であった原因は,これをモールス信号にすると聞き取りにくいことが原因のようです。CQDをモールス符号で表すと「−・−・、−−・−、−・・」,SOSは「・・・、−−−、・・・」となり,SOSの方が単純明快であることが分かります。
OEDでSOSを引いてみたら,以下のような引用例がありました。
1910 J. A. Fleming Princ. Electr. Wave Telegr. & Teleph. (ed. 2) 882 This signal, S,O,S, has superseded the Marconi Company's original high sea cry for help, which was C,Q,D.
1910 E. Lawton Boy Aviators in Nicaragua 263 S.O.S. is now the wireless distress call.
1924 Mod. Wireless III. 310/3 The famous signal "SOS" was adopted officially by the International Radio Telegraph Convention in July, 1908.
これによると,「リーダーズプラス」などに記載されている,「CQDが1908年頃まで用いられた」という記述は,"SOS"がInternational Radio Telegraph Conventionの席上で正式に採択された年と一致します。
タイタニック号の船長のスミス氏は,20数年間も船長を務めた大ベテランで,タイタニックの処女航海が,彼にとっては船長として最後の航海だったそうです。老練船長の彼にとっては,緊急信号といえば「CQD」という印象が強かったため,通信士にもそのように指示したのでしょう。一方,若い通信士は,逆に,遭難信号は「SOS」であるというイメージを持っていたため,「CQDを打て」と言われたとき,すぐに意味を理解できなかったのかもしれません。このことからも,「CQD」が短命であったことは当たっていると言えるでしょう。それとも,CQDと言われて通信士が聞き返したのは,単にCQDということばを知らなかったからではなく,unsinkableと言われたタイタニック号に乗務していて遭難信号を打つなどあり得ないことで,何かの間違いではないか,という意味合いがあるのでしょうか?
ともあれ,映画と言語学,見た目には何のつながりもないかもしれませんが,映画を観ていて「あれっ?」と素朴に思った疑問にとことんこだわってみると,意外な発見があるかもしれません。もっとも,映画ぐらい,何も考えず楽しんで観ればいいのに! という考えもありますが…。